Re: ちょっと思ったこと… 雲水さん
もう少し詳しく教えて下さい。
なんとなく、雲水さんのおっしゃったことをヨガグル(クリシュナグルジ)がおっしゃったと事に近いと
思いますが、私が考えている事は、少し異なると思っています。
それに比べて、青木先生の仰った事は、完璧に、私の思っている事を理解して頂いたか分かりませんが、
なんとなく、私が悩んでいる事と、同じ方向あたりの事を、相談にのってくださったのだと思っています。
ヨガを大きな統一という大きな意味で捉えるとインド舞踊もなんでも、表現すると言う事が
ヨガの実践であると青木先生はおっしゃっていただいたような気がします。表現するというのは、最終的には、
自分のエゴを超えた所にいきつくのが理想だと思っています。しかし、出発点は、自己です。
もちろん、ヨガの目的も同じだとは思いますが、その過程が私の中では今までは異なっていました。
とらえ方が少し異なっていました。ヨガと表現というのはイマイチつながらないのです。特にハタヨガと表現。
カルマヨガも今まで、表現としてとらえたことはありませんでした。
自分が絵を描いていた時は、自分のエゴがとにかく、辛く、
絵を描く事をやめてしまったのでした。そしてもっと他者とかかわれる、そして変化があらわれる身体表現に
興味をもったのでした。ヨガは、身体への追及の一環として始めたわけだったわけですが、ヨガには表現という部分がなく、人間としてうまれた意味がヨガでわかるのかという深い疑問と、探求心があります。
それでも身体は素晴らしいもので、
この現代社会に生きている人で、なんと、身体に関心のない人が多い事か!と思い、ハタヨガとうのは、
万人に向けた身体を意識する訓練としては、本当に素晴らしいものだと思っています。
ヨーガグルにはなるつもりはありません~。それを語るつもりもないし、私には語れません~
一ヨガ講師として、ハタヨガを教える事は、身体(呼吸、そしてつながり)をしる導入としては素晴らしいものだと思っています。
とても勉強になるので、返信お待ちしております~
【2010/11/08 15:52】
URL | Kaori Naka #- [ 編集]
答になっているでしょうか… 仲さんへ
うんうん、ここらへんがツボなのかな…というあたりをつけつつ読んだのですが、何を問うておられるかをもう少しかっちり教えて頂けませんか。がっつりお答え出来るものならがっつりお答えしたいです。
・・・・・・・・・・・・
上のような形で問いをさせて頂いてからきっちり答えを射たいのですが、魅力的に問われ、このままではつまらない!
見切り発車で始めてしまいます。よろしくおつきあい下さい。
共感的に読めたところが…
「自分が絵を描いていた時は、自分のエゴがとにかく、辛く、絵を描く事をやめてしまったのでした。」
「ヨガには表現という部分がなく」
というところ。
そして、おお、ここがツボかなと思ったところが…
「カルマヨガも今まで、表現としてとらえたことはありませんでした。」
というところ。
ここで仲さんが使う「表現」という言葉は英語(西洋)で言うexpressionでよければ、それこそ西洋的自我(エゴ)が基盤となっている言葉で、自我がみっちり吸収し蓄積したものを、圧し、抽きだすようにして出すことであり、エゴが辛いと仰る仲さんに当然合うわけがないのではないかなという理解をしました。
そして、カルマヨガをバガヴァッド・ギーター(あまり詳しくないんですけれども…)の中で理解しようとすると、武人としてのアルジュナに自らの天命としての職務を遂行することを求めるクリシュナのことを思い出します。
武人たる天命としての職務を果たすとは、個人の「表現」ではないわけで、これと全く同じく、踊り子たる天命としての職務を果たすことも、個人の「表現」ではない。エゴの表現であるわけもない。このように思っています。
武人であれ踊り子であれ、天命としての職務を真摯に遂行している瞬瞬、エゴと言いうるようなものはそこに無いはずですから。
それがカルマヨガの究極という理解をしています。
また、だからこそ踊り子のことを乗り物を現すvehicleとも言い(だったと思う…)、グルよりも上で身体に始原の型を設定する方々(あなた方の最初のグル、グル・ケルチャラン、グル・パンカジゲマワット)をarchitectと表現するのではないでしょうか。
そして身体とは神殿、そこに現れるものを現す言葉はご存知のとおり。
そして、※書いてもそれはただの言葉、言葉を越えた向こうには何?
ここに※で指したものは踊りのグルであろうと、ヨガグルであろうと、共通のものであり、外に現れるあらゆる行為(カルマ)は、そこにおいて統一されており、そこから現れている。これが私の(錯誤であり得る)語りでした。
私も勉強になっています。
自分の身心に深くから響くものを知ろうとして追うわけで、たいへんよい機会を頂いています。
【2010/11/09 00:22】
URL | 雲水 #guRgTqeo [ 編集]
さらに… ここに書いていない部分も多くありますし、そこが私のなかから「書いて~書いて~」と訴えます。
ひっぱりだして下さいな。
「庭師は表現するのか?」
こういうテーマの話も魅力的でしょう?
【2010/11/09 00:40】
URL | 雲水 #guRgTqeo [ 編集]
一夜明けて再読し、しまったと思いました。
「表現」など、双方で使っている言葉の照合と整理ができていないので、このままだと相当にちぐはぐになる。
欧米的な「エゴが現れる表現」に対して、インド的な「エゴの止滅した表現」「エゴを越えてゆく表現」といった二極性を現し、語り分けてゆけばよかった…
ともあれ、私の書いたところは仲さんの文を適確に受けていません。
自分が書いたことの基幹構造は保存したまま書きなおせますが、「表現」という言葉の使い方を、この対話のなかではミスしています。
とりあえず私の文はちぐはぐを起こす失敗として認知し、仲さんが次を書いて下されば、そこからちゃんと受けて書けるようにしたいと思います。
【2010/11/09 21:55】
URL | 雲水 #guRgTqeo [ 編集]
Re: 答になっているでしょうか… 雲水様
書かれている通りなのです。エゴがつらいと思うけれども、西洋的なexpressionが、大切だと思っています。
表現というのは、エゴから始まるとも思っています。舞踊家は、職人ではありません。
それがエゴで終わるのか、それとも、それを超えたものとなるのか。
それが超えるという事が、表現する事の意味だと思うし、生きる意味だと思います。
しかし、それが経験したい、というのが私の悩みです。
そして、私が考える表現が、カルマヨガなのかという事です。理想としては、カルマヨガなんだと思います。
ただし、それが実行できているかどうかが、私の悩みなのかもしれませんね。
【2010/11/10 17:00】
URL | Kaori Naka #- [ 編集]
きっと出来ます 仲様
本当に現代の都市的状況を生きる私たち共有の問題を意識しながら、インドの古典舞踊を道とされているのですね。
バガヴァッド・ギーターに書かれているアルジュナに勧奨されているエゴを超えたあり方は、もしかすると柳宗悦が唱道した民芸運動のようなものと共通しているのかもしれません。しかし、その民芸運動の職人のようなあり方の踊り子ではなく、現代的なエゴを抱え、それを原点ともする舞踊家として踊りたいという意味でしたら、audienceのひとりとして解ります。
これは本当に、この時代を生きているインド系の古典舞踊家がほとんど抱えている問題ではないのでしょうか…
例えば私はジャワ王宮舞踊も好きで、年に一回ほどの集中した劇場公演を見に行きますが、あれを踊る方々も持っている問題なのかもしれませんね。ただし、ジャワ王宮舞踊の舞踊家は、聖域としての舞台上で、個人性を抑止し消してしまうことを覚悟で踊っているように見えます。
ここで、同じようなエゴの問題を抱えつつ建築や環境、創作に関わろうとしている人間として、確かに勧められるというわけではない単なる参考をお伝えさせて頂きます。
エゴにも執着に絡み取られた粘着質のエゴから、独立自尊の自己表現を湧き出させようとするエゴや、自己意識がありつつ執着が感じられず、幸福なシャーンティそのものの無常・永遠の中で、世界の生命性と融和しているというエゴまで、色々な位相があります(経験なので言い切っていますが…)。
この第三のあり方は現代では滅多にないものなのかもしれませんが、現実に現れましたし、これはもしかすると古代のほうがよく現れていたのではないかと思うのです。つまり程度は別として、古代によく現れて来つつ現代にもあること。
この直感を信頼するために古代の彫刻や建築を見ることは、古代に「いまここ」として経験されていた歓喜の海と言うべきものを、遠くわが身に響かせ、記憶すること… そのように思います。
これが私たちを支えてくれるかもしれません。
そして、この顕現の時について個人的に思うのですが、オディッシーの再創造的再誕生に関わる神話的なまでのエピソードには、隠れたもうひとつの次元があるのではなかろうかと…
オディッシーは寺院彫刻から再興されたというお話は有名ですよね。これについてどのarchitectが主導されたかなどといったことは知らないのですが、このお話を聴いた者は、それがインド人の古典舞踊修練者であっても、彫刻の踊る姿態の方に注目しているのではないかと…
ところがその踊る姿態を満たし、外なる自然界と内なる自然界を連ねて、舞踊者やaudienceをも連ねる歓喜の海というべきものは、別の次元で見出し、その彫刻へ透って観えるように観る必要があるのかもしれません。
(もしかすると姿態と一体で見事に表現している例もあるかもしれませんが…)
前者のほうは、西洋の記号学的なnotationのように観てゆくことに集束しやすい。舞踊学会の研究論文にもそういうことが多いような印象があります。一方で後者のような観方こそ、そのあり方を認知するなら、私たち現代の都市的状況を生きる表現者たちにとって重要なことではないのかと思うのです。ここらへん、是非とも再興に関わった原初のグルにお聴きしたかった。
今、杉浦康平さんの「生命の樹・花宇宙」を開いています。このp.64~p.69に、渦巻ける歓喜の海から顕現する生命の文様、渦巻き踊る植物、湧き出で光り輝き渦巻くプラーナ… このように言うしかない表現がありますが、これはまさにその実体の経験を身に印された者にしか出来ない表現!当時それは当然のactualityとして顕現していた!
このことをじっとみつめて、身を染めるようにして記憶し、少しでもそれを身に蘇らせることができるように道を探す…
それは出来ると思います。
その上でエゴを透してエゴを超えゆき、エゴを超えて成就した舞踊表現は、いつか賜れると… 私は信じられます。
こういった経験は現代の都市部でエゴに悩む者にも可能ですし、そういう条件の中であればこそ、顕現するものはあると信じられます。
古代の人が身を透して現したエゴを超えたもの… そこから勇気を得ましょう。
そして自然からも人からも…
書かせてくれてありがとう。
【2010/11/10 21:11】
URL | 雲水 #guRgTqeo [ 編集]
一回やったら忘れて新たにやるだけでしょうね。
自分がカルマヨーガかどうかをチェックしている分にはそれではなくなってしまう…
舞台に立ったらアルジュナの気持ち…
【2010/11/10 21:31】
URL | 雲水 #guRgTqeo [ 編集]
あなたが踊ってくれて、皆が幸せな顔をしていたら、あなたのカルマヨーガはそのとき成就だと思います。
【2010/11/10 21:50】
URL | 雲水 #guRgTqeo [ 編集]
Re: タイトルなし なるほど。とても的確なご意見をありがとうございました。
しかし、難しい事を考えすぎて、つかれてしまいました:)
でも、文章にして頂けるとすこし整理がついた気がします。
これからも、まじめに踊りもヨガにも取り組みたいと思います。精進致します。
神様~よい出会いをありがとう!!雲水さんとの出会いに感謝。ありがとう。
【2010/11/11 15:01】
URL | Kaori Naka #- [ 編集]
私も疲れました。
同じような時代的問題は抱えているから、自分が書いたことは自分でも厳しくみてしまう…
すると…
あ~ 踊りをみて幸せ~とかだけ言っていたい。
ですが、実はたくさん得たものがあって有り難かった。
出会わなければ人生で決して解らなかったかもしれないことが多数…
めぐり合わせへ真摯に感謝。
【2010/11/11 21:29】
URL | 雲水 #guRgTqeo [ 編集]
Re: タイトルなし そうですね!
【2010/11/12 07:34】
URL | Kaori Naka #- [ 編集]
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